「多様性を認めよう」
これは現代、盛んに見聞きするようになった言葉の一つだと思います。
スローガンのように使われている側面があると思います。

日本語教育界でもよく聞きます。
多くの場合は、さまざまな学習者を想定して「多様性」という言葉を使うことが多いように感じます。
しかし、今回は教師側に焦点を絞って考えたいのです。
当たり前に言われているし、そのようにしようと考えられている「(学習者の)多様性を認めよう」ですが、教師間ではいかがでしょうか。
学歴をテーマに考えていたときに、教師同士の多様性は守られているのか、認め合えているのか疑問に感じた点をまとめます。

①日本語教師はさまざまな人がいる

そもそも、日本語教師はさまざまなバックグラウンドの人がいます。

例えば、年齢。
まだ少ないとはいえ新卒の先生もいれば、他の仕事を経験してキャリアチェンジをした人もいます。
定年後に養成講座に通う人もいるので、文字通り若い人から年配者までどの年齢の人にもチャンスがあります。
日本語教師として教壇に立つのに年齢制限はありません。

次に学歴。
現行の教師資格は学歴の制限はありません。(学歴によって選択肢が増えるという点は否定できませんが、ここではその点は問いません。)
養成講座入学の条件に年齢を含んでいるわけではないので、大学で資格(主専攻・副専攻)を取った人もいれば、高卒(中卒でも可)で420時間養成講座修了や日本語教育能力検定試験合格の資格を取った人もいます。
どのような人でも、現行の資格にさえ則っていれば学歴は問われません。
そのため、中卒、高卒・学士・修士・博士、本当にいろいろな学歴の人がいます。

さらに、社会人経験の有無と種類。
種類という表現は適切ではないかもしれませんが、そこは固く考えないでください。
社会人経験を経て日本語教師になった人もいれば、社会人経験がない人もいますが、その「社会人経験」というものもさまざまです。
公務員、営業、マーケティング、経理…仕事内容だけではなく、業種も多岐にわたりますし、国内で働いていた人もいれば、海外勤務で日本語教師に興味を持つ人もいます。
そして、そのどれもが日本語教師としての仕事に生かせる経験となります。

日本語教師になった目的もさまざまです。
留学生を対象に日本語教育をすることを目指している人もいますし、年少者への日本語教師になることを夢見ている人もいます。
対象者によって求められるスキルなどが違うので、なんとなく雰囲気も違うように感じます。

②日本語教育機関もいろいろ

日本語学校、大学、専門学校、技能実習生対象の教育機関、EPA(経済連携協定)介護士・看護師候補生の対象者、生活者、年少者、国際交流基金の日本語教師派遣・日本語パートナーズ、JICA、海外の勤務先(現地の大学、高校、日本語教室など)

あげるとキリがないのですが、たくさんあります。
対象者が違うので、雰囲気も大きく違います。
私の場合は、海外で教えていたときは、日本でいう習い事教室だったのですが、学生はお客様という側面もありました。
そして、趣味での学習という比重が大きかったので「とにかく楽しく」というのがベースにある学校でした。
一方で、日本で就職したときの学校は専門学校だったので「JLPTの合格」「大学への進学/就職」楽しさは二の次、という方針でした。
同じ日本でも学校が変わると「基礎力をつける」「学習だけではなくて人間性」というところもありました。

もう、全く方針が違って、雰囲気も変わるし、先生たちの優先順位が高いことも違いました。
だからこそ、すっと去っていく人もいましたし、1か所で長く勤務して「こここそが最高!」という人もいました。

EPAと関わっている先生とお話しすると、専門用語にも精通している人が多いし、年少者が対象だと児童の出身国の外国語が堪能な人も多くいます。

選択肢が広がりますね!

③日本語教師同士はお互いを認め合っているのか。

さて、質問です。
日本語教師同士は、お互いを認め合っているのでしょうか。





うーん……
「何をもって」という基準がないので、難しい問題ですが、たまに先生同士に対しては厳しくない???と思うことがあります。

学校内で新人教育がずさんだったり、過去の経験を生かそうとすると否定されたり、学歴で優劣をつけられたり…

なぜそうなるんでしょうね?
不思議だし、残念な気持ちになります。

日本語教師は同じような考え方の先生が長く同じ場所で勤務して、麻痺してしまうのでしょうか?

そう考えると、日本語教師は多様性に富んだ人が集まっているけれど、お互いの多様性は認められていないような気も……

もしそんな片鱗を感じたら、自分とその周りからお互い認め合える環境に変えていきたいですね。